ホムンクルスは脱フラスコの夢を見るか

脱ニートを目指す絵描きな引きこもりが、主に週間・月間・年間ごとに振り返りを残すブログ。

#166 『自分と向き合う』が分からないと自分と向き合えない

 だらだら書きます。

 依頼のイラスト制作で想像力とか創造性のリソースをかなり消費しているのか、某ロードマップ用のイラストが描けないし、だいたいふと思いついたことを週間報告とかで話題に上げようと思っても、いざその時になると忘れていることが多々あるし、だからといってそれをメモする気もないので、気力回復のための休息がてら、だらだら書こうと思います。

 

 とりあえず今回のテーマは、『自分と向き合う』。

 

 これを書く少し前に、思いました。

『自分と向き合う』ことがなんたるかを知らない、理解していない、そもそも考えたことすらないと、自分と向き合えないよね、と。

 

 だったらまずは、『自分と向き合う』ってなんぞやと。

 私は日々なんとなく、感覚的に、『自分と向き合う』状態や時間をつくっています。

 

 その最たる例が、このブログ。

 ――これはなんとなくやっているかというと、そうでもなくて。

 ただ、もはや習慣化しているため、あまり意識しなくても取り組むようになっているので「なんとなく、感覚的に」とは言い切れませんが。

 

 さておき。

 このブログでは主に週間、月間、年間でその期間の自分を振り返っています。

 特に月間は割と大事な項目で。

 月末に次月の目標を決めて、やることを決めて、取り組んで、次の月末でその1ヶ月間の振り返りを行っています。

 目的は、

・脱ニートという大目標達成に向かう自身の現状と現在地の確認
・日々だらだら漠然と時間を食い潰さないため
 といったところです。

 

 この例でいえば、『自分と向き合う』とはつまり、

『目標達成のための自身の現状確認』

 です。

 

 ……正直なところ、『自分と向き合う』って具体性がありません。

 このブログに関しても、1つの例に過ぎませんし。

 だから、「これをするのが『自分と向き合う』ことだ」と断言できないんですね。

 

 だとしても。

 なんのために『自分と向き合う』べきか、を説くなら。

 

 それは、

『自分をよりよい状態にするため』

『自分をさらにレベルアップさせるため』

 だと思います。

 

 例えば、

「おれはイライラする時、ポテチとかチョコとかケーキとか食いまくってジュース飲んで気分をすっきりさせる!」

 というのではなくて。

「私はイライラする時、読書とか散歩とか瞑想で意識をイライラからそらしている。もしくは作業や筋トレとかで、イライラのエネルギーを発散している」

 というのが、『自分と向き合う』ことではないかな、と。

 

 イライラした時、なにかしら食べて飲んで気分を解消しているとするなら、その分お金を費やしますし、食べたものを消化するためにエネルギーを消費します。

 とはいえ、それが料理の勉強や研究を兼ねている、その先で実利を得ているならまだしも。

 ジャンクフードみたく、手軽に買って食べて終わるだけなら、ただお金を浪費しているだけで。

 さらに、内臓に負担をかけているので、知らず知らずに自分の体を傷つけているわけで。

 はたしてそれは、『自分と向き合う』ことなのでしょうか?

 

 対して。

 読書なら、なにかしらの情報や知識を得ることができます。

 散歩なら、脚を動かすことで血流がよくなり、脳機能が活性化して創造性が上がり、発想が浮かびます。

 瞑想なら、意識を呼吸や自分の体に向ける、意識がそれたら戻す、を繰り返すことで集中力が向上します。

 作業――私でいえば、イラスト制作や小説執筆。

 あえて興奮状態を引きずったまま作業に入ることで、普段とは違うアウトプットがあるかもしれません。

 あるいは、だんだん作業に集中していって落ち着くかもしれません。

 筋トレなら、筋力の維持や向上、見た目の変化が得られます。

 

 その行動の先に、自身の状態がよくなる、自身の成長が見込めるとしたら、それこそ『自分と向き合う』ことではないでしょうか。

 

 結局、どんな形で『自分と向き合う』かは人それぞれで。

 ただ、「自分自身に前向きな変化をもたらす」という点では共通すると思います。

 

 で、これって『自分を客観視する』とも言い換えることができて。

 自分の考えていること、見えている世界、自分の体の状態や動作を、自分以外の第三者の目線から見る、という意味ですね。

 

 となると、日常の些細なことでも「前向きな変化をもたらす」ことができます。

 例えば、体の動かし方。

 階段を上る動作でいえば。

 脚を上げて段に足をつけて体を持ち上げて、反対の足を次の段へと持ち上げる、という一連の動作の繰り返し。

 

 私は日常でこれを、

・階段をより短時間で上り切る
・足音をなるべく立てないようにする

 という感じに意識しています。

 すると、

・常に一段飛ばし
・息を吸って腹筋に力を込める
・脚を持ち上げた時、体をくの字に折り曲げるように上体を前傾させる
・土踏まずのあたりを段の縁に引っ掛けるように踏み込む

 という動作に辿り着きました。

 結果、普通に歩く時と同じくらいのスピードで階段を上っているような感覚がするようになりました。

 なおかつ、普通に上るときより体が軽く感じます。

 

 とはいえ。

 駆け上がっているわけではないですが、心拍数が上がります。

 階段を上る時間が短くなって、意識的な感覚が軽くなりますが、負荷は強めです。

 一般家庭レベルの階段ならまだしも、ビルとかタワーとかどこぞの寺の前にあるようなやたら数のある階段だとむしろ控えた方がいいかもしれません。

 

 こんな感じで、日常動作にも意識を向けて、常日頃から工夫をするようになりました。

 

 もう1つ、例を挙げます。

 

 私は日常のスケジュールに、筋トレとHIITを取り入れています。

 現在、筋トレは週5日で、HIITは週6日。

 習慣化してからは、筋トレは約3年ほど、HIITは2年弱ほど続けています。

 

 筋トレやHIITをすることに、目標はありません。

 ただ、体には適度に負荷をかけ続けないと、歳をとるにつれて老いて衰えていきます。

 これはすごく、すごく長期的な目線での取り組みです。

 歳をとっても、バリバリ動き続けられる体でいたい、という狙いから、日々筋トレとHIITを続けています。

 今ここで筋トレとHIITをするのが当たり前、日常の一環、習慣として刻み込まれれば、歳をとっても続けていると思いますし、続けられると考えています。

 こうしてこれらを継続したら、はたしていつまで体を若々しく保てるか。

 そういう観点からの実験でもあります。

 

 時々、筋トレやHIITをさぼりたくなることもあります。

 体が不調というわけでもなく、ただ気分が乗らない、みたいな。

 そんな時こそ、「今筋トレをめんどくさがっている」と客観視します。

 

 めんどくさがってる。

 そう、ただめんどくさいだけ。

 やれないわけじゃない。

 だとしたら、やらないままでいるのか? やるのか?

 やるべきだろう。

 今やらなかったら、明日もやらない。

 明後日もやらない。

 ずっとやらなくなる。

 ダンベルを買った金が無駄になる。

 

 みたいな感じで自問自答……することはほとんどありませんが、結局やります。

 多少時間をずらしても、その日のうちにやろうとします。

 なにがなんでもやります。

 前日、寝る前に「明日はHIITと胸トレの日」と口にするくらいに、しっかりやります。

 やるのが当然というものにします。

 というか、しました。

 気分が乗らなくても機械的に動くようにしましたし、より機械的に動くようにしています。

 

 別に、筋トレもHIITもやろうとやらないと、どっちでもいいんです。

 ただ、筋トレやHIITのよさや効果を知っている以上、やらないよりやった方がずっとマシで。

 だから続けています。

 習慣にしています。

 

 こんな感じで、自分にとってよい影響を与えるものを意識的に取り入れようとする、継続しようとするのもまた、『自分と向き合う』ことだと思います。

 

 反対に、今の自分に必要でないもの、実は自分に悪影響をもたらしているものを切り捨てることもまた然りかと。

 ただ世間がこう支持しているからとか、誰かが勧めているからとか、これまでこうしてきたからとか、受動的な理由で行動するのではなくて。

 

 これでいいのか。

 このまま続けてもいいのか。

 これで満足していいのか。

 もっといい感じにできるんじゃないのか。

 

 そうやって、あえて自分の考えや行動、見ていたり見えていたりする世界に疑問を持って、時に否定をすることも必要だと思います。

 自己否定なんて嫌な響き、ネガティブな印象ですが、やり方によっては自分をよい方向へ変える場合もあります。

 

 それまで続けていたことに疑問を持って、違う側面からだったり形でアプローチをして、そしてよい結果が出たとしたら、それは前向きな自己否定になります。

 

 ちなみに私の体験談ですが。

 イラストを描き始めて2年経って、今3年目なんですが。

 この2年、ひたすら自己否定の連続でした。

「これでいいのか?」

「もっといい感じにできるんじゃないか?」

 そんな風に前向きに自己否定をし続けてきた結果、2年で多少マシに描けるようになりました。

 

 ただやみくもに、描きたいからと描きたいだけ描いていたら、変化はなかったと思います。

 そもそもイラストで稼げるようになる、その先で脱ニートする、という目標があったというのが一番大きいですが。

 

 イラストを描き始めて初投稿したのが、2020年の2月。

 このブログは、2020年の3月から始めました。

 その時から週間報告や月間報告を続けていて。

 もう2年も、自分と向き合い続けてきたことになります。

 

 ――だらだら書いていたら、本当にだらだら書いて、ここの時点で4000文字弱です。

 

 そろそろ終わりたいので、締めくくりというか、結論としては。

 

『自分と向き合う』というのは、『自分を客観視する』ということ。

 達成したい目標があるなら、それに向けて、自分が脇道にそれていないか、達成するための積み上げをしているかの確認。

「今のままでいいのか?」「もっといい感じにできるんじゃないか?」という、成長のための前向きな自己否定。

 

『自分と向き合う』を言語化するなら、そんな感じだと思います。

 あくまで、私の個人的な考えですが。

 

 目標ありきの話になっていますが、たとえ目標がなかったとしても。

 自分が固定観念に捕らわれていないか、視野が狭まっていないか、思考の柔軟性がなくなってきていないか、という自分の状態の確認のためにも。

 

 ……あ、いや、ここまで来てなんですが。

 

『自分と向き合う』のは、成長欲求とか向上心がないとありえないかなー、と。

 意識的に、あるいは無意識で「自分はこのままでいい」なんて思っていたら、自分と向き合おうとしませんし。

 自分を客観視することもありませんし、客観視するという発想もないと思います。

 

 もう元も子もない話というか、本末転倒というか。

 結論改め。

 

「自分を変えたい」「変わらないといけない」と思うことがない限り、『自分と向き合う』ことはありません。

「自分を変えたい」「変わりたい」「結果を出したい」と言いつつ、延々となにも変わらない、結果が出ないとしたら。

 それはたぶん、無意識に自己否定を避けている、目を背けているからなんじゃないかと。

 そしてそれに気づけていない、というのもあったりするのかもしれません。

 

 変化したくない、成長したくない、幸福になりたくない。

 心理学的に、そういう観点があったりします。

 現状バイアスだったような?

 

 なかなか悲惨な話ですが。

「今の自分から変わりたくない」「今の自分を変えたくない」ならまだしも。

「変わりたい」「結果を出したい」と言いつつ、なにも変わらず、なにも結果を出せないのだとしたら。

 それは自分が変化や成長を無意識に避けていることを自覚していないのかもしれません。

 変化や成長に必要となる苦難・苦痛から逃げていることに気づいていないのかもしれません。

 それこそ、自分と向き合えていない、とも言えるんじゃないかと。

 

 ……なかなかまとまらないと言いますか。

 終わらないと言いますか。

 

『自分と向き合う』とは結局、目標や目的ありきの行動だと思います、はい。

 加えて、それまでの人生経験、情報や知識の量、メンタルなどなどその他様々な要素も絡んで、それを活かせるかどうかという結果につながるのかな、と。

 ……難しいです。

 いや、まさかこんなに難解で複雑でカオスなものだとは思いませんでした。

 

 とりあえず、安易に人に「自分と向き合え」と言うものではありませんね。

 禅問答をするならともかく、抽象的すぎて、人によって受け取り方が違います。

 

 それなら、例えばイラストなら。

「資料を探しましょう」とか「人体のデッサンを整えるためにポーズ人形や3Dモデルを使いましょう」とか「目標にするイラストやイラストレーターを決めましょう」とか。

 そう伝えた方が分かりやすいです。

 

 ようやく明確な答えに辿り着いたかというとそうでもなくて。

 でもいい加減終わらないと文字数とか時間があれなので、不完全燃焼でだらだらどころかぐだぐだな形になりますが、とりあえず結論改め改め。

 

 心底から成長する気がある、変わろうとする気があれば、勝手に自分と向き合っています、はい。

 

 では。